落首・狂歌、面白い!

今日は午後から県図で「越後庶民史研究会」。

主に天保年間の落首について金森先生主導の勉強でした。

落首は、例えばどこかのお屋敷の塀にいつの間にか落書きされていたり、紙に書かれたものが道にばらまかれていたり…の「詠み人知らず」。
それだけに辛辣な体制批判やら、苦しい生活の中の本音のつぶやきやらが生々しく詠まれていて、いわば、今の匿名ネット投稿にも似ているような気もしますが、その言葉のセンスや教養の高さは今の匿名ネット投稿とは雲泥の差が有るようです。

勿論、「よく出来たもの」だけが後世にまで残されているという事も有るでしょうが、それにしても、批判や嘆きを言葉遊びのユーモアを持ちつつ、五・七・五・七・七にまとめる教養の高さ!

書き手は、いわゆる一般庶民ではなくある程度の知識階級、場合によっては幕府の内部告発的な事も有ったのではないかという説、頷けます。

対して、狂歌は詠み手(従ってその素性)が明らかになっているからこその面白さがあり、いくつも有る連(狂歌のグループ・派閥(?)みたいな集まり)のお歴々は、それこそキラ星のごとき教養・知識人達(大名家の江戸留守居役なんかも…)ですが、こちらは、あくまで「遊び」「楽しみ」としての狂歌であったようで、藩政批判の歌を咎められて自刃しちゃったり、即行日和っちゃったり… 金森先生曰く「弱腰なのよね~」。(笑)

狂歌の詠み手の中でも天才! の太田南畝(狂歌の詠み人としては四方赤良)が、太田蜀山人の事だと、初めて知りました。
他に、狂詩の作者としては寝惚先生と名乗っていたそうな。
この方も、支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚で、狂歌に対するお上からの風当たりが強くなるとおとなしくなっちゃって、後に大阪銅座に赴任、中国では銅座の事を蜀山って言うから蜀山人を名乗ったんだそうです。
いやぁ、この頃の人達って、いくつも名前持ってるから「あ、あの人ってこの人なんだ!」なんて事がよく有って分かりにくいっす。(;^_^A

それにしても、落首や狂歌って、いわゆる「表向きの歴史」よりもその時代の生々しい有様が表されていて、すごく面白いです。

学校でも、こういう授業が有ったら、きっと「歴史って面白い!」と思えたんだろうけど… まぁ、こういう事をいちいち取りあげていたら、いくら時間が有っても足りないんでしょうねぇ。
今だって、もっともっと掘り下げて調べてみたいと思いながら、結局日常の多忙を言い訳にして、なかなかそこまで突っ込んで勉強しないもんなぁ~。
まぁ、でも、たまにでも、ほんの少しの時間でも、こういう事を学ぶ機会に恵まれている事には心から感謝! です。

そうそう、天保12年5月、水野忠邦による天保の改革で「倹約令」が出されてからの落首の中に、こんなものが有りました。

● 見渡せば 客も遊女もなかりけり 大門口の 秋の夕暮
● 芝居者 喰ふや喰はずで 堺町 今日も越前 明日も越前
(忠邦=越前上のエチゼンと、飯一膳《イチゼン》をかけている)

なんか… コロナ禍の今と似ているな~ と思うのは、私だけでしょうか?

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする